Tさん、52歳、営業職、独身
Tさんは、母親(73歳)が認知症を発症したため、30年勤務した会社を退職しました。
父親を小さい頃(小2)に亡くしたTさんは母子家庭で育ちました。母親はパートを掛け持ちしながら、Tさんを大学まで行かせました。その後、一流企業に入社することができました。母親の自慢の息子でした。
企業の同期の中では出世が早く、周囲から期待されてきました。客先からの評判も良く、売り上げの実績もあります。30代では、転勤もこなし地方都市の営業として実績を積み上げてきました。その間、母親はパートで生活し家を守っていました。
30代後半になると、周囲から結婚の話が多くなり、お見合いにも積極的でした。
しかし、20回以上のお見合いを重ねましたが、いつも相手からの返事は「NO!!」でした。原因は、母親との同居が結婚条件だったためでした。
苦労して育ててくれた母親を1人にしたくないという想いが強く、気に入った相手から、同居をしないのであればという意見が出ても、この条件だけは譲れないと、縁談を自ら断ったようです。
一方、母は息子の結婚話に乗り気で孫の顔を見てから死にたいとまで伝えていました。
まさか息子が自分との同居を頑固に守り通しているとは知りません。なぜお見合いがうまく行かないのか母は疑問に思っていました。
上司からも、「母親が元気なうちは二人で生活し、将来は同居もあり得ると相手に伝えておけばよいのでは」とアドバイスされましたが、「嘘はつけないし、母を1人にして自分だけ幸せになることはできない」と強い意思を上司に伝えました。
40代に入ってからは、部長職となり、部下の信頼も厚く、チームを引っ張っていく求心力がありました。結婚は諦め、独身宣言を周囲に告げ、更に仕事に力を注いでいきました。
狭心症で倒れる
ある日、部下と地方の出張のため、前日にまとめた資料の準備をしていました。
部下と深夜10時過ぎまで打合せをし、帰宅しようと椅子から立ち上がると、急に胸が苦しくなり、倒れ込んでしまいました。部下は慌てて声をかけますが、苦しいうめき声をあげるのがやっとでした。
救急車が到着し、救急車の中で心臓マッサージが行われました。
病院で、上司を見守る部下はスタッフの指示通り、母親に連絡、到着した母親にことの一部始終を伝えました。
狭心症という診断でその後2カ月の入院生活を送ることになったのです。
Tさんは仕事に穴を開けてしまったことを後悔し、病院にパソコンを持ち込みましたが、医師と上司の判断でパソコンの持ち込みを禁止させました。
悔しい想いもあったようですが、生活を改めることが寿命を延ばすことでもあると、考え方を変えることができました。そのきっかけを作ったのは、母の言葉でした。
「私より早く死なないで欲しい。あなたがいなくなったら私の老後はどうなるの? もっと長生きするように生活を改めて欲しい。食生活を見直すように私も努力するから。お願いします」と言われました。
退院したTさんは職級を辞退し、責任の軽い仕事にシフトしました。
残業も減り、母親と一緒に食事をとることも多くなり、土日はジムへ通うようになりました。体重も減り、健康な身体づくりをしていました。
認知症の発症
そんなある日の夕食時、演劇に行くと言っていた母に「おふくろ、今日の演劇どうだったの?」と尋ねたところ、「今日は家から出ていない」と返事が返ってきました。
「今朝、新宿まで演劇を見に行ってくるって言ってたじゃない」と言っても、言葉に反応せず、黙々と食事をしていました。
それから1年で母親の認知症はあっという間に進んでしまいました。
優しく、時には厳格だった母親は、毎日のように「私の通帳がない。お前が持っているだろう!私のお金だから返して!」と泣きわめくようになりました。
医師は、施設に入所させることを進めてくれましたが、働きながら母の面倒を見る方法を選びました。
最近、母親はTさんを見つめ「あなたはどなた?」ということが多くなりました。一番つらいのは自分の記憶がまるで無くなっていくことでした。
しかしそれとは逆に、少女のような笑いに救われることも多くなりました。
介護生活を決意
仕事をしながらの病院通い、食事の世話、夜の俳諧も始まり、精神的にも肉体的にも介護の疲労度が増してくるようになりました。
狭心症を抱えていたTさんは、ついにこの状況を続けていくのは難しいと考え、退職することを視野に考え始めました。施設に入れて働くことも考えましたが、母の苦労を考えると自分が面倒を見る番だと割り切ったのです。
幸い、貯蓄があることも退職の決断の一要因でもありました。その3カ月後、30年勤務した企業を退職し、自宅での母の介護生活を始めました。
会社から介護休暇制度も利用させてもらい感謝するばかりです、とTさんは今日も忙しい日々をスタートさせています。
今でも施設にはなるべくお世話になりたくない、とTさんの頑固さはゆるぎないものでした。